津のほん 第21号 1986/12 VOL.4より転載
ちいさな、ほんとに小さな旅をしてみませんか。「見当山」 クルマで十分たらず、池の畔から歩いて五、六分ほど登山する。 と、伊勢湾まで見わたせる。眼を左の方へ移すと、一身田の町がある。専修寺の大きな屋根が二つ見える。ほんの二、三秒眼をつむる。再び眼を凝らして見ると、西のほうから、夥しい幟が揺れている。かすかに鉦の音と人のざわめきが聞えてくるようだ。そう、今は十八世紀の世紀末、唯一、庶民に許される大旅行、「お伊勢講」の人の群れ。江戸から、京・大阪から近頃では、通過する旅人の数、一日で万に達する日もめずらしくない。おかげでこの一身田の「はしむかい」安濃津の「藤枝」も大繁昌。よそ者に負けたらアカン、「よし、今夜あたり久しぶりに・・・」 「ネ、アンタッ!」「あっ、びっくりした」「いねむりしとったら風邪ひくよ」「なんや夢か」「なんの夢みとったん?」「い、いや、ア、アルノ川をへだててミケランジェロの丘からフィレンツェを眺めとった夢や」「ふーん」「ルネッサンスでなあ〜」 「ここの景色、そう思て見ると宗教に包まれた、町のたたずまいがよう似とるわ」と、まあビンボーニンは少ない知識と最大限の想像力をふりしぼる。かくてこの小さな旅は予想外の歴史の大旅行に変身する。「さて、久しぶりにホンザン拝んでこか」。
一身田の歴史と生活 編集室
独立国・一身田
唐突な話から始めるが、もし、ここに江戸時代の人がいて、その人に「この町を津市一身田町と言います」と紹介したら、どんな反応を示すだろうか。多分「確か、津と一身田とは別じゃなかったかな?」という疑念が頭をかすめるのではないだろうか。もともと津は城下町、 一身田は寺内町。この二つの街は、人的、物的その他いろいろな関わりはあったにしろ、はっきりと区別されていた。
現在の町並みを見てもそうである。 高田本山専修寺があり、お堀があり、古い店がある。こんな形の町は津市内において、一身田以外のどこにもない。町の発達の仕方が違うのだろうと誰もが思う。でも「津市民」となった今では、さして気に止めない。
地元の人と話した。その中で今まで知らなかったことが色々と出てきた。現在の建築基準法では禁止されている三階建ての木造建築物がある。それは遊廓の頃の遺物だそうな。
昭和十八年には専修寺東の太鼓門で「無法松の一生」(坂東妻三郎主演)の撮影があった。また、町内には今でもモンペなどを売る衣料店、墓石、畳屋などがある。
ほかにも和菓子屋、仏壇屋、造り醬油の店が多く、この町には生活に欠かせないものがすべて揃っている。教育施設では幼稚園、小学校、中学校、高校、短大。病気やケガをすれば、内科、外科、小児科。子供が産まれれば産婦人科(これはちょっと東寄りの栗真町内)。身寄りがなければ老人ホーム。健康な人なら野球場や武道館(これも東寄りの栗真町内)へ。スーパーにいたっては四軒もある。
ないものを探そうと考えたが、映画館に、今はやりの弁当屋、病院の診療科目では耳鼻咽喉科と眼科ぐらい。「ゆりかごから墓場まで」を地でいく町である。そんな話をしていて、ふと思うのは「この町を出ずに一生を終える人も多かったのではないか」ということ。とくに江戸時代、ここ寺内町として独立しており、町を出ない人の方が多かったようにも思う。
無量寿院の建立
さて、この「独立国・一身田」を今から解きほぐすのであるが、何よりもまずその歴史から調べないと始まらない。平凡社の「三重県の地名」によると、一身田は「志登茂川が形成した沖積平野のほぼ中央に位置し、北は志登茂川を隔てて今井・田端村と今井谷村に接し、南はおおむね支流の毛無川を境として大古曾村と接する」とある。ここでいう一身田は一身田村のことで、今は周辺の村々を合併し、一身田町となっている。
また、その地名ついては「元慶二年(八七八)六月二日条に、皇女へ三河国に一身田を賜ったとの使用例もあって、天皇から親王・内親王その他勲功ある者に、その身一代を限って与えられる賜田に基づく。当村名の由来については『神鳳鈔』御巫清直書写本(神宮文庫蔵)奄芸郡一身田御厨の項に 「□王殿一身田』との注記があり、この清直が判読しえなかった一字は『斎』である可能性があり、そう判読するならば、この地は伊勢神宮の斎王に対し一代を限っ与えられた賜田となり、歴代斎王に逐次与えられたことから、当地の地名として定着したと考えられる」
要するに、学説では天皇が明和町にある斎宮の王に与えた田圃が一身田ということになる。しかし、それは大昔のこと。室町時代に入ると、幕府の直轄地となり、幕府の奉公衆の一員で、奄芸郡一円に勢力を張っていた長野氏の支配下に、そして文明年間(一四六九~一四八七)には真宗高田派十世真慧によって、この地に無量寿院(のちの専修寺)が建立されると、次第に一身田はこの寺を中心とした門前町、寺内町へと変貌していく。
無量寿院が一身田に建立された最大の要因は、昔からここが交通の要所だったこと。その頃、北勢方面からの参宮道は一身田の北部(豊野あたり)で志登茂川を渡り、津へと通じていた。なぜ今のように白塚から津へと抜けなかったのかというと、志登茂川河口の川幅が広くて渡れなかったから。そのため上流の川幅の狭いところを選んで通行していた。
その後、志登茂川河口に江戸橋が架かり、北勢方面からの参宮道は現在のような伊勢湾沿いの道になり、一身田を通らなくなったが、今度は逆に、これまで山裾を通ってい鈴鹿峠からの道が一身田を通るようになった。 結局、江戸橋の設置によって人の流れは変わったが、交通の要所としての一身田の意味合いはほとんど変わらなかった。
寺内と堀の話
一身田の町並みに話をもどすと、無量寿院が専修寺と名称を変えるのは豊臣秀吉の時代。その頃から一身田の中心部では寺内町が形成されていく。 寺内とは、寺の境内に準じており、課税されない地域として認定されたところ。こういった寺内は知られているだけで全国に十二、三ヶ所あったが、今は一身田と橿原市の今井町の二カ所だけ。
今井町は全域史跡指定になっているほか、民家が三軒も重要文化財となっている。その大きな理由は幕末から明治の時点で、発展が止まってしまったから。それに比べ一身田は明治以降も発展した。今、町内を見渡しても専修寺以外に重要文化財に値する家は一軒もない。本瓦葺きの家がない。ただし、一身田は今井に比べて堀の状態がよい。その意味で今井は民家、一身田は堀で寺内町の面影を残している。
一身田の寺内を文禄検地でみると、「一身田村の村高は五五九・四九石で、そのうち三五〇石が文禄五年(一五九六)七月二十九日付豊臣秀吉朱印状によって専修寺に施入され、残る二〇四石余は津藩が元和元年(一六一五)五万石加増の際、同藩領とされた。また、その後、万治元年(一六五八) 寺内町の西に隣接する地域その他で十町四反八畝二十三歩(一八四・一五八石)の土地が津藩から専修寺へ寄進されるとともに、窪田村、大古曾村への道路敷分を差し引旧寺内町と合わせて面積十八町二反余の寺内町が形成された」(三重県の地名より)という。
寺内の区画をはっきりと示す、周囲にめぐらされた堀だが、やや狭くなった以外は、ほぼ当時のままの姿を止めている。記録によると、この堀は幅二間半(約四・五m)ないしは三間(約五四m)で、長さは東一九九間半(約三六〇m)、西二三二間半(約四二〇m)、南二六五間半(約四七八m)、北二四〇間(約四三二m)だった。また、三カ所にだけ橋と門があり、南東隅のものが黒門、北東隅のものが赤門、西側のものが西口門または桜道門とよばれ、明六つ(午前六時)に開門し、暮六つ(午後六時)に閉じられた。
一身田の商業活動
このほか、寺内町では商売が許されていた。こういうと、奇異に感じるかも知れないが、江戸時代においては商業というものが城下町以外では禁止されていた。貨幣経済の浸透をなるべく防ぐというのが当時の封建領主の考え方で、一般の農村には店屋さえなかった。逆に城下町では街の繁栄を図るために資金援助までしている。
こういう社会構造の中でも一身田は、封建領主の支配を受けない寺院の勢力範囲であったから商売ができた。ここで商業活動が盛んになれば寺も発展する。だから寺院は領主同様、商人に対し資金援助をした。本山では専修寺の祠堂金が貸し出され、それが流動資本になったこともあって、門前の仲ノ町、向拝前町、西ノ町には呉服屋、染物屋、肥料屋、酒屋、旅籠などが店を連ねたという。現在の店舗構成は、その頃の影響をかなり受けている。文頭で一身田には、ないものがないと述べたが、それは寺内町として独立していたからであり、一種の治外法権地域内で繁栄した歴史を物語っている。このほか、本山と天皇家の関係は、常磐井宮や伏見宮や有栖川宮から門跡を迎え入れるなどで古くから続いており、その門跡への献上品、またはお買い上げ品が一身田の商品を、よりグレードの高いものにした。
現在、門前で営業する和菓子の「春乃舎」などは、その創業が文化十年(一八一三)という。この年に本山が春乃謹製の品を、時の有栖川家六代目・有栖川織仁親王に贈ったとされているためだ。一身田にはこういった老舗が今も残っている。また、治外法権的な意味合いから遊廓も生まれた。遊廓は万治元年(一六五八)に二十五軒が茶屋株の免許を受け、本山南の橋向で営業していた。
ベスト3に入る遊廓
茶屋とは水茶屋のことで、茶汲女と称する遊女を抱えていた。遊廓で有名なのは東京の吉原と京都の島原だが、一身田の遊廓はそれに次いで古いといわれている。津市内では一身田のほかにも藤枝と贄崎に遊廓があり、三重県全体では伊勢の古市に大きい遊廓があった。しかし、藤枝は文禄五年(一六九二)に藤方村から分離して藤枝となった頃、九十軒ほどの水茶屋が並び、遊廓化していたというものの、藩から認可されたのは寛政二年(一七九〇)のこと。贄崎は安政六年(一八五九)のことである。また、古市はその歴史がはっきりしていない。
ところで、一身田の遊廓について、あの南総里見八犬伝の滝沢馬琴が享和二年(一八〇二)、京、大阪、伊勢と旅し折の旅行記「羈旅漫行録」にこんなことを書いている。「伊勢の妓楼しかるべきもの。第一古市、第二松阪、第三一身田、第四四日市、第五津、第六神戸、第七桑名なり。このうち桑名は少しおとり」。要するに一身田は三重県の中でもベスト3に入る素晴らしき遊廓ということになる。このほか馬琴は芝居の噂話を記す中で、「一身田も至極繁昌なる地にて、ここにも芝居あり、八月初旬大坂より片岡仁左衛門などくだりて芝居ありといへり」と書いて、その賑やかさを伝えている。
一身田はその後も専修寺とともに発展し明治を迎える。明治初め、維新による廃藩置県で旧藤堂領が安濃津県に、寺領が度会県にと分けられたが、三重県の誕生により明治九年までにそれも解消される。その間、小学校や郵便局などが設置され、町の整備が進む。また、明治十三年には明治天皇、二十年には英照皇太后が専修寺に行幸するなど維新前にも増して賑やかな町となっていった。
農業・商業・工業
一身田が河芸郡に所属したのは明治二十九年。その時、中野村、上津部田村、豊野村、平野村、大古曾村と窪田村の一部を合併した。その頃の戸数は七百十四戸、人口は四千四百二十人(明治二十七年)。年々町の姿も変わり、新し色々な業種が生まれている。 明治三十九年の県統計書によると、職業別人口は次のとおりとなっている。
古物商百十人、質屋二十八人、宿屋三十九人、 雇人請宿四人、湯屋十六人、煙火製造所二人、同販売人三十二人、原動機据付場五人、食肉商三十八人、牛乳しぼり取場六人、娼妓紹介四人、畜鶏場二十三人、清涼飲料水製造場一人、同販売百二十八人、理髪八十五人、料理屋十五人、飲食店七十一人、芸妓二十人、酌婦二十七人、医師二十五人、産婆三十八人、人力車業二十七人。
ここには菓子屋や呉服屋が入っておらず、半面、産婆さんが四十人近くもいるなど奇妙な統計ではあるが、明治時代にこれほどの業種が軒を並べていた思うだけで驚きである。統計書にはほかに、明治二十四年の開通と同時に設置された関西鉄道(津駅~亀山間) 一身田駅での乗降客数も記されている。それによると、昭和三十九年の一身田駅での乗車客は年間九万七千余人、下車客は九万四千余人。その当時の一身田の人口が四千七百五十人弱だったことからして、その大半は高田本山への参拝客と考えられる。
その後、明治四十四年に村は町となり昭和を迎える。昭和に入って世帯数は若干増えたが、人口は四千六百人余とほとんど変わらない。また、産業は農業が三百戸と多く、次いで商業二百五十七戸、工業百三十四戸、公務・自由業百十六戸となっている。これを見る限り、農業と商業に従事する人が圧倒的に多かったといえる。おそらく農業は町の周辺部に、商業は門前に集まっていたのだろう。
工業では明治三十年代から綿織物工場が相次いで建設され、中でも富田金七が明治四十年に創業した富田綿布工場が大きかった。そして、大正に入り、交通機関がますます発達する。その代表的なのが伊勢鉄道。大正四年に一身田〜白子間が、六年に一身田~津間が開通し、一身田の東端高田本山駅(現在の高田本山駅よりやや西)が開設された。このほか自動車も登場し、芸濃町椋本~津間では乗合自動車の便ができ、停留所が置かれた。
「歴史と生活の街」
以上のように一身田は明治以降も発展を続け、徐々に町並みは変わってきたが、その骨格の部分ではさほど変化はない。幸いにして空襲をまぬがれ、高田本山専修寺やその他の末寺も昔のままである。また、貴重な堀はほぼ原形を止め、今も毛無川へと注いでいる。一身田はやはり門前町であり、その意味合いは今も昔も変わっていない。
昭和二十九年、津市に合併して「津市一身田町」となったが、一身田は一身田として独立した存在であると思う。別に京都のように行政と仏教会が大ゲンカをして、堅く門を閉ざしてしまおうというわけではない。この独立とは、より精神的な意味合いである。城下町と門前町とは、その歴史からして異質。その特徴を生かして、町の発展につなげればよいのである。
橿原市の今井町は町ぐるみで史跡指定になったと書いたが、こういう生き方はどうかと思う。史跡というと、カッコはいいが、結局は生活の息吹が感じられないところが史跡。旧集落を除く一身田町には現在約三千二百人が住んでいる。住んでいるからには少々町並みが変わって当然。この町には門前町として五百年余の歴史があるが、その歴史の中においても商業の業種その他でいろいろと変遷してきではないか。
そこで一つ提案だが、この一身田を「歴史と生活の街」と位置づけて、門前で朝市を開いてはどうだろうか。とかく一身田は「津市のベッドタウン」だとか、「じいちゃん、ばあちゃんの街」だとか言われているが、それはやはり町に力がない証拠。故郷意識が低い証拠。そう言われないためにも町の特質を生かした催しや商売をやってほしい。 朝市なら、さしずめ「早起きの街・一身田」というのはどうだろう。ちょっと、年寄りじみたかな?
特集の続きや、津のほんのバックナンバーは弊社にてご覧いただけます。