津のほん 1985/10 VOL.2より転載
一一八五年三月二十四日、壇の浦から八〇〇年。
まさに、ただ春の夜の夢の如しである。
平家はロマンであるという。
その発祥は我が豊穣なる伊勢平氏の中心、津であるという。
なんと誇らかなことだろう。
うれしいではないか。
ロマンはロマンであるからして、夢と空想の世界を駆けめぐる。
歴史家が、さまざまな検証を重ねてゆくうち、ロマンの迷路にまよい込むことになる。
全国に散らばるおびただしい数の落人部落。作者の定かならぬ平家物語。
それらはいったい何を意味するのだろうか。
伊勢平家をしのぶ 横山高治
1 平家八百年
奢れる人も久しからず
ただ春の夜の夢の如し
猛き者も遂には亡びぬ
偏に風の前の塵におなじ
栄よう栄華をきわめ、都雀をして「平家にあらざれば、人にあらず」とまで、いわしめた平家一門が元暦二年(一一八五)春三月二十四日、西海の壇之浦で波の底に消えた。武門の棟梁として、全国六十余州のうち三十三カ国を治行し、権勢並ぶ者なき平家が、あっという間に、しかも壮烈に亡び去ったのである。
人々は、きのうまで平家を怨んだ人さえ、その悲壮な最期に限りなく同情し、人間の力をはるかに超えた運命に「諸行無常」を感じた。そこから民族の叙事詩ともいうべき、「平家物語」が生まれ、〝亡びの美学”ともいえる「武士「道精神」が芽生えた。
それは平家の滅亡が源氏に対する敗北であったにもかかわらず、平家一門には源氏のような一門での殺し合い、裏切りといった醜いものは何ひとつなく、まして降参などという卑怯未練な振る舞いがなかったからだ。
明治の文豪、高山樗牛は、「平家物語」にヒントを得た「滝口入道の恋」で、日本の若者を魅了したが、その著「平家雑感」にも結びの言葉を次のように書いている。
「かくて平家は亡びぬ。亡ぶるまでも成敗の為に其の名節を枉(ま) ぐることをなさざりき。あはわ平家の世ざかりはまことに大いなりしが、其の没落の更に大いなるには及ばざりき。うるわしき哉平家、かくして亡びたりとて何の恨むるところぞ」
人も花もまことに散りぎわが大切であるが、平家一門の滅亡こそ、美しさとあわれさに満ちた最期の典型ではなかったろうか。
2 伊勢平氏考
その平家こそ、わが伊勢に興った「伊勢平氏」であり、その武士団の中核は、伊勢のサムライたちであった。
平家の興隆期はもちろんだが、滅亡期ですらそうであった。京都女子大学の村井康彦教授は、「最後まで平家に従ったのは伊勢、伊賀と備前、備中の兵ぐらい」と言っておられる。では伊勢平氏とは何かー
わが国の四大姓といえば源平藤橘であるが、武門の棟梁は源氏と平家である。いずれも平安時代に皇族が源や平の姓を賜って貴族、のちに豪族となった。源氏はかなり系流が多いのに、平家は桓武、仁明、文徳、光孝の四流しかない。しかも、このうち武門の棟梁となったのは桓武平氏で、その庶流ともいうべきは伊勢平氏なのである。
桓武天皇の四人の皇子の子孫が、それぞれ平の姓を名乗った。このなかで一番栄えたのが葛原親王の孫、高望王の系流だ。
系譜は非常に複雑だが、端的に見ていくと、高望王が寛平二年(八九〇)、平朝臣の氏姓を受け、上総介に任ぜられた。今ならさしずめ千葉県知事というべきか。藤原氏一門が栄華をきわめる都にあっさり見切りをつけて、坂東に根をおろし、武士団をつくる。
この高望王に、鎮守府将軍となった国香を頭に八人の男子があった。いや、もっとあったかも知れない。いずれにしても母なる女性は一人ではなく、豪族の姫、眉目よき村娘など幾人もいたであろう。
この子らの子孫が房総に、武蔵に、秩父に、相模に、伊豆に……広がって、いわゆる坂東八平氏として栄え、のちには皮肉にも源平争乱の時代、多くは源頼朝を助けて、伊勢平氏打倒の原動力となっていく。
この系流で国香の子、貞盛が、従兄の平将門を討伐したこともあって、名声を上げる。この貞盛の次男、維将は坂東に根を下ろし、のち北条時政に至る伊豆の北条氏をはじめ赤橋、金沢、高力、熊谷の各氏を派生し、四男の維衡は寛弘三年(一〇〇六)、伊勢守に任ぜられ、伊勢や伊賀に所領を持った。
この維衡の孫の貞衡が伊勢の津の櫛形に本拠を構え、安濃津三郎と名乗り、その孫、清綱が桑名二郎と称して北勢に大いに勢力を振るったらしい。
「らしい」というのは、この系統はその後はっきりせず、伊勢の歴史書の上でも忽然と姿を消しているのだ。
しかし、貞衡の弟、正衡が伊勢平氏を継承、その子、正盛に及んで、やっと中央の院政政権と結びつき、津市産品の平家館に生まれた、彼の子、 忠盛が海賊討伐や得長寿院の建立での功績をかわれて宮中に昇殿する。
その子、清盛は太政大臣となり、やがて平家一門は滅亡するが、清盛の孫、小松三位中将平維盛が伊勢に落ちのびたのである。まさに平家は伊勢平氏であり、伊勢は平家の永遠のふるさとなのである。
3 大いなる遺産
みやびやかで、あまりにも美しい平家の最後。それは日本の精神文化に大きな影響を与えている。「勝たねばならぬ」「敵を殺さねばならぬ」 ー野蛮な武士道イズムと、美しい滅亡の悲劇、それは一見、相反するようだが、戦いにのぞみ、潔く戦い、潔く散る。あるいは敵にも味方にも優しい「花も実もある武士」とか”もののふの道”という男の美学は、日本独特のものであり、この平家文化の遺産なのである。
サムライの話をするからといって、ウルトラなナショナリズムや敵がい心を称揚するのではない。いや、平家の人々には、実はそうした卑屈なものはなかったのである。
例えば歌人として名高い薩摩守忠度をみてみよう。 寿永二年(一一八三)七月、木曾義仲の源氏軍が都に迫り、平家一門は都落ちするが、彼は危険を省みず都にとって返し、歌の師、藤原俊成の邸を訪れる。
「急な旅立ちでお別れのあいさつも叶わず、残念に思うておりました。途中で勅撰集のことを思い出し、もうたまらず引き返して参りました。ここに百余りの歌を書いております」
と、鎧のかくしから一巻を出して渡す。
「お志の程感じ入りましたぞ。こよない形見と存じ、大切に読みましょう」
と、答えて俊成も涙を流す。名ごりは尽きない。今はこれまでと馬にまたがる忠度。
「例えいずくの空に屍をさらそうとも、歌さえ残しておけば思い残すことはござらぬ」
と高らかに笑って都落ちして行った。俊成は、のちに勅撰和歌集に、読み人知らず 「故郷の花」という一首を収めた。
さざ波や 志賀の都は荒れにしお 昔ながらの山桜かな
忠盛塚
彼は兵庫・一の谷合戦で討死するが、鎧のえびらにもう一首「旅宿花」を付けていた。
行き暮れて 木の下陰を宿とせば 花や今宵の主ならまし
どこまでも風流な公達である。後白河院や源氏を呪う辞句はかけらもない。ひたすら運命に従い、潔く散っていっ武士である。
この人間像と美の精神は、日本人に大きな感動を与えた。後世の南北朝時代、戦国時代、いや太平洋戦争の中で散った男たちの心情にも深く影を落としている。
伊勢では、津市の生んだ国学者、谷川士清が日本書紀通証三十五巻を大成し、平家一門ゆかりの安芸の宮島に奉納するが、彼の国学の美の極致には平家のイメージがあった。
また士清の友で、同時代を生きた松阪市の国学者、 本居宣長は古事記伝を大成するが、
敷島の 大和心を人問わば 朝日に匂ふ山桜かな
と詠んだ。ともに平家武士の血を引く家系の人であったろうが、「もののあわれ」に魅かれた知識人であった。
4 平家伝説の宝庫
伊勢平氏のふるさと伊勢には当然のことながら平家の伝説が多い。
近畿日本鉄道の上本町事業部が十一月十七日、源平八百年記念の「伊勢平氏探訪号」を大阪から伊勢に走らせる。特急で津市に行き、三重交通のバスで津市産品の「忠盛塚」のある伊勢平氏発祥伝説地から半田山の涼風荘レストラン経由で、安芸郡芸濃町河内の「維盛之墓」のある成覚寺を訪ねるコース。解説は平家に詳しい京都の作家、駒敏郎さんが予定されている。
近鉄のスタッフの話だと、恐縮だが拙著「伊勢平氏の系譜」(創元社刊)をベースにしての企画だそうだ。要するに伊勢中央部の安濃川沿い、始めの忠盛と終わりの維盛を軸に平家の伝説をしのぶ趣向だ。それだけ色濃い伝説があり、見直されるわけである。
忠盛は嘉保三年(一〇九六) 津市産品の平家館に生まれて都に昇り、殿上人となった。津に御殿場海岸、別保の人魚伝説、置染神社・・・・・・などゆかりの話が多い。彼から四代目の維盛は平治二年(一一六〇)、一門の繁栄期に京都で生まれ、清盛に可愛がられるが、源平合戦の中で、寂しい敗軍の将となり、寿永三年(一一八四) 三月十日、屋島の陣営を離脱、紀州を放浪。那智の海で死んだことになっているが、実は伊勢の河内村に逃れて承元四年(一二一〇 )三月四日、五十余歳で死ぬ。
この平家五代のドラマは「壇之浦滅亡」と一味違うが、維盛の子、六代も伊勢に来て、一志郡の嬉野町日川や美杉村に墓や伝説を残した。このほか、関町、南島町、和具町、名張市青蓮寺・・・・・・と伝説は尽きない。
とりわけ伊勢市矢持の知盛久昌寺、志摩水軍、伊賀忍者、平家の伝説にまつわる話題は目を見はるものがある。だから南北朝時代から戦国時代まで栄えた名流、伊勢国司の北畠家の家臣録にも平家武士の子孫が多いのだ。
このあたりの伝説や家臣録が十分に整備されていないのは伊勢っ子の怠慢であろう。
私事で恐縮だが、私が今春、拙著「伊勢平氏の系譜」を出版した時、伊勢の人や、あるいは伊勢を出られた人々から実におびただしい手紙を頂戴して感激した。いちいち紙上に紹介できず残念だが、安濃郡切っての名家、紀平家の故紀平正美文学博士(天皇陛下の師)の四女という群馬県高崎市の落合秋さん(八四)からの手紙には「小学四年まで明合で過ごしました。経ヶ峰や安濃川の流れ、平家の伝説が私の心の支えになっています・・・・・・」とあり、陸上幕僚長、中村守雄氏の手紙には「戦災で系図を焼いたが・・・・・・わが家の定紋は男紋も女紋も平家の定紋、揚羽蝶を使っていました。退官後は伊勢に帰って、平家を調べたい」と書かれていた。望郷を平家への思いにひとしお打たれる思いであった。
今年は各地で源平八百年の記念行事が続いた。だが、伊勢ではこれという話もなかった。津市の文化人が「行政が伊勢平氏や藤堂藩に冷淡、というより反感を持った人が多いのでしょう」と寂しく笑っていたが、真偽はともかく、私も一抹の寂しさを感じている。やはり伊勢平氏は槿花一朝の夢であろうか。
(津市出身 歴史小説家)
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