津のほん 第13号 1985/8 VOL.2より転載
ジャーナリズムがヤマギシを語るとき、いまだに「あのヤマギシズム」と、必ずあのがつく。
昭和三十四年七月、不法監禁、財産横領詐欺などの疑いで捜査に入った警察に対し「山岸会弐百万羽科学工業養鶏株式会社春日農場」と「世界急進Z革命団」の看板を並べてみせてから二十六年。その間、外部からは常に「あの」を冠せられてきた。
しかし、ヤマギシは実直な日常性を積みかさね着実に成長しつづけている。
津の中心部から十分余り、高野尾にその本部があるそこから産み出される製品は広く全国に出回り、すでに市民権〟を得ているが、まだまだ津市民ですら「あの」の存在であると感じている方も少なくない。
「津のほん」がはじめてそこを訪ねた日も、その村は静かで優しい人々が言葉少なに作業に熱中していた。何度か通っているうちに、「あの」の部分が少しづつなくなっていくのに気がついた。
ヤマギシ実践編 (ルポ) ハズやん
何かヘンだ。朝からおなかの具合が悪い。と言いつつも、昼食はハヤシライスにレモンスカッシュ。まずいとは感じなかった。陽気のせいかな? 外はもう夏の太陽。暑い、実に暑い。
七月十一日、パジャマと洗面用具、それと取材道具のカメラ、ノート、レコーダーなどを持って、津市高野尾町のヤマギシズム生活豊里実顕地に体験入村した。
窓口は、実顕地内の中央、小高い丘の上にある。玄関に立ち、今日で何回目の来訪だろうか?と思いめぐらし、多分、四、五回になるな、などと納得しながら、いつもの受付の人にあいさつした。
特講から実顕地へ
ヤマギシズム生活豊里実顕地を特集するにあたって、その内容は六月半ばにほぼ決まっていた。実顕地のオキナガさんとの打ち合わせで、メインが実顕地ルポと写真グラフ、関連で〝村人”の寄稿文二本と座談会、それと実顕地の内容紹介。
しかし、これらをこなしていくには、一つの前提がある。郷に入っては郷に従え。別にヤマギシズムに迎合して美味しいところだけをいただこう、というイヤしい根性ではない。 かりそめにも入村し、ペンでヤマギシズムの実態に触れようとするのだから、ある程度の〝共通認識〟は必要だ、ということである。
では、その〝共通認識”をどこで得るのか? 得るところは豊里実顕地から西名阪国道を使って約三十分の「春日山」にある。ヤマギシズム生活春日山実顕地が併設する山岸会春日山特講会場(阿山郡伊賀町)。そこで毎月一日からと十五日からの月二回、特別講習研鑽会が開かれる。
特別講習研鑽会、通称「特講」については、ここでは触れない。「いかなる場合にも腹のたたない人になる」とか「自他一体」とかをいくら文字で表現しようとウソになる。「文字で表現できないなんてウソだ!」という人もあろうが、それはそれでよい。要は自分自身の心の問題なんだから……
「1132回」|車のナンバープレートのごとく連なった数字を背に八日間(七月一日~八日)の「特講」を終えた。1132回の特講修了生はその団体名を、いくつもの粒が固まったという意味から「とうきび会」と名付けたが、我ながら実に素晴らしいネーミングだ、と思う。
さて、下界に舞い戻り、まず驚いたのは、日教組大会の津開催であり、阪神タイガースの対広島戦三連敗であった。「山」の生活では、新聞、テレビはもとより定期刊行物一切が目の前から消えていたので、わずか一週間のことながら世の中が少々奇異に映った。
しかし、それだけのことである。田中元首相が豆腐の角に頭をぶつけて死んだとか、豊田商事の元社員が全員ザンゲをして仏門に入ったとか、わが津のほんが爆発的に売れて、プレミアがつくようになったとか、という話はついぞ聞かれなかった。
自分というものについても、考え方が百八十度変わり、実社会で 「金のいらない楽しい生活」を実践しようと、隣りのタバコ屋からセブンスターをタダで失敬しようなどとも思わず、結構スンナリと下界の生活に融合していった。また、「あんた、変わったねぇ」と言われることもなく、逆に「なあ、オレ変わったやろ」と振る舞ってみせる毎日であった。
こんな状態の中、車を走らせて、ヤマギシズム生活豊里実顕地の窓口に立った。受付の人に、係のウツギさんを呼んでもらい、少時、簡単な打ち合わせ。このあと、〝配属先〟の養豚部へ出向いた。相方はイワサキさんという中年男性。いや青年の曲がり角的中年というべきかな? 早速、着替えをして職場研鑽(ここでは、すべてが研鑽であり、農作業も職場研鑽とよぶ)。
実顕地の中には所有権がない。すべての物は所有されるべきでない、という考えで、従って、誰のものでもない。作業着もしかり、棚にならんだ衣類はきれいに洗濯され、使う人が大きさに合わせて自由に選ぶ。
オバちゃんが「暑いやろ、半袖のつなぎ〟がここにあるに」と言ってくれた。サイズがM寸であることを確かめて、「これがええわ。着替えがラクやし」とオバちゃんに礼を言って、養豚部の集会所である拠所(よりどころ)に向かった。
太陽は朝からずっと大地を照りつけている。大地も「ええかげん暑いわ」という風にトタン屋根がつくるカゲの部分をうらやまし気に見る。
困った時はニワトリに聞け
ヤマギシズムの創始者、現在の実顕地、供給所、山岸会の具現者、山岸巳代蔵についてここで少し触れておく。 彼は明治三十四年八月、滋賀県蒲生郡老蘇村に生まれた。地元の小学校高等科を出て、京都の絹問屋に奉公、十五才の時だった。しかし、間もなく金銭の介入する資本主義の社会構造に疑問を持ち、離職、その後、社会主義やアナーキズムの洗礼を受ける。
戦時中、東京で特高に追いかけられ、逃げ込んだところが養鶏場であった。これが巳代蔵とニワトリとの最初の出会い。彼はにわかに養鶏のとりこになり、その研究に没頭した。そして、まったく独特の養鶏方法を考案して成功をおさめた。
「困った時はニワトリに聞け」が彼の養鶏方法の基本である。人間が平静心でいれば、それはニワトリにも敏感に反映する。精神の平和がニワトリの平和を支え、その平和を学びつつ人間が争いのない社会をつくる。 ヤマギシ養鶏法は飼う人間の精神に革命が起きてこそ、初めて出来るのである。
この養鶏法に賛同する農民も集まり始めた。そして、昭和二十八年三月、有志二十数人による「山岸会」が誕生した。三十三年八月、春日山の土地約三万坪を購入、「山岸会式百万羽科学工業養鶏株式会社春日農場」を拓く。ここで全員が一体生活を営むわけだが、一体の意味は自然も含めた一体であり、終生のものであるから財産という観念はそこからは生まれない。
山岸巳代蔵は山岸会が発足した八年後の昭和三十六年五月に岡山で特講中に急死した。巳代蔵は「きめつけ」「固定化」を極度に嫌い 「無固定前進」を唱えていた、という。すべての「しがらみ」から解き放たれ、開放感にひたり、自分を見つめ直す。外部から見て一見、奇妙な生活スタイルは、自分を見つめ直す〝研鑽〟の中から見い出されてきたものだ。
ブタも人の子?
体験ルポにもどろう。初日の作業は〝親ばなれ”したブタ君たちへの給餌。巳代蔵があみ出したという曲線型の屋根、吹き流しの小屋(ニワトリもブタも牛もみんな構造は同じ)は真中に渡り廊下的な通路がついている。エサ箱はその通路沿いに並んでいる。
エサはまずタマゴから。一部屋に約三十頭のブタがいるが、それらが、われ先にと群がる。次は赤土。 「土って、エサか?」という諸氏、ヤマギシのブタは土を食べるのだ!最後に配合飼料。トロッコに積んでの作業で比較的ラクであった。
約三十分の休憩(中間研鑽)ののち、再度、豚舎へ。次の作業は「床直し」であった。一部屋ごとにキッチン、居間兼寝室、トイレ、水飲み場が付いている。別に敷居があったて、それぞれのブタがふすま越しに「入ってよろしいでしょうか?」と声をかけるわけではないのだが、〝住人”にはその場所がだいたい分かっている。
ただし、温度が上がると、ブタも人の子? 「あんなクソ暑いところでションベンが出来るか!」ということになって、居間兼寝室でつい垂れてしまうのだそうだ。 それを正常にもどす作業が「床直し」である。
細かいオガコをトロッコに積み、それぞれの部屋におじゃまする。体全体から汗が吹き出す。こんなハズでは、と思いながらも、体力不足を体調が悪いせいにして、作業を進める。それにしても、ここのブタたちは元気である。長靴をかじるもの、威風堂々、寝返りをうちながら、なかなか退こうとしないもの、 こんな部屋が四十四もあるのだから大変だ。
午後六時すぎ、職場研鑽終了。この日は研鑽学校修了生が研鑽するところ)の受講生が実習に来ており、整理研鑽はなかった。だから、すぐに「村のお風呂」(銭湯形式)で汗を流し、愛和館で食事をとる。
愛和館は各地の実顕地にあるが、ここが“初代”だそうだ。愛和館は「誰もが幸せになれる場所」と春日山で説明を受けた。また、村人も幸せそうに見えるのだが、そういう気持ちがどこから生まれてくるのか、というと、小生には未だに不明確。ともあれ、テーブル一つとっても、真中におひつがあり、「自分のことは他人にしてもらい、他人のことは自分がする」という発想からすれば、実に使いやすく合理的に出来ている。
チエちゃんとツチダさん
翌日はなんと雨だった。午前五時起床、タオル一枚を頭にかけて拠所に走る。高台にあるせいか、雨はどんどん下界へと流れていく。急いで着替えて豚舎に出向いたら、すでにイワサキさんは作業を始めていた。今日の作業は豚舎のフン出しから。前日にしんどいとは聞いていたが、なるほど、こりゃ大変だ。ブタたちが出す大量のフン、尿をトロッコを使って運び出す。
サンルーフ式のトタン屋根から時折、横殴りの雨が降りかかる。でも、ほとんど気にならない。なぜ?って、雨以上に汗が体内からにじみ出てくるから。ようやるわあ!って、ウン、我ながら、ようやった方や。フン出しが終わったところから床直しが行われる。南京袋いっぱいのオガコやチップを居間や寝室にまく。
午前七時半、出発研鑽なるものに出席した。七人だったか八人だったか、よく覚えていないが、養豚部のメンバーの前で自己紹介と感想などを述べた。
「津のほんってなんや?」
「津の郷土誌ですねん」
「特講を受けてきたんか?」
「何をすんのか知らんだけど、おもろかった」
こんな話やったかなぁ、という程度で、出発研鑽の印象は非常に乏しい。そのあとは各々が作業の打ち合わせ、そして、また豚舎へ。九時すぎにはフン出し、床直しも終わり、イワサキさんは供給所(ヤマギシでは生産物の販売店として実顕地内外に供給所を持っている)の仕事とかで名古屋に出張していった。
失業者となった小生を次に受け入れてくれたのは分娩舎のチエちゃんだった。チエちゃんは出産中の母豚のところへ案内してくれて、次々と生まれてくる子ブタについて説明してくれた。ここで生まれたブタは生後五十日から六十日ぐらいで、“母ばなれ”し、先ほどの豚舎に移されるとのことだ。
一頭につき十五頭ぐらいを産み落とすのだそうだが、この母豚は結局十二頭を産んだ。一、二頭は出産前後に死んだのだろう。豚舎近くのポリバケツには死んだ子ブタが入れられ、バケツの底から真っ赤な血が流れていた。無事、生命の宿った子ブタは元気に母豚の乳房をすっている。
分娩舎の通路を清掃したあと、時計が午前十時を過ぎた。シャワーを浴び、 愛和館で第二食。 ヤマギシズム生活実顕地内では食事は一日二食である。この食事方法も巳代蔵が養鶏法の一つとして考え出したものだ。また、「食事はよく噛まずに、口は楽しいお話に使います」という指導も特講中に受けた。
拠所から愛和館の道々、養豚部のツチダさんと話した。
「豊里の平均年齢どれぐらいなんでしょう?」
「さあね? でも、結婚は男性の場合、遅いみたいですよ。四十ぐらいじゃないのかな?」
食後、ロビーで一人新聞を読んでいると、ツチダさんが出来たてのお菓子を持ってきてくれた。
「美味しいですねぇ」
「実顕地内の仲良し班が作ったんですよ」
「へぇ〜」
「今からその仲良し班でトウモロコシの収穫があるんで……」
ツチダさんはそう言うと忙しそうにロビーを出ていった。小生は再び新聞に目をやった。それにしても北尾は強い。千代の富士を破り四勝一敗。
不思議二題
しばらく昼寝をした。目覚し時計を午後一時にセットしたのは覚えているが、起きた時の感覚は朝であった。脳裏にニワトリの声が聞こえた。でも、それは幻聴であったようだ。朝の記憶がどこかに残っていたのだろう。顔を洗いかけたが、いや待て、と思って、カーテンを開け、そそくさ拠所に走った。
午後からのお供はセッちゃんだった。朝の雨がうそのように消え、薄曇りの中での作業だった。サイレージというブタの食べる草がある。最初、別に気にもとめていなかった。「サルベージだか、サイボーグだか、けったいなもんがあるんやなぁ」という程度の認識だった。それをサイレージだと強く感じさせたのはセッちゃんだった。
「ちょっと車に乗って」
と連れていかれたのがサイレージ置き場。山と積まれた草の山、それも湿っていて農作業用のフォークを使って、やっとこさはぎ取れるという代物。それを二十以上の箱に分けて入れて、というのだ。
作業を始めて一時間、汗はタラタラ、服はグショグショ。親指も痛くなってきた。 セッちゃんがまた車でどっと箱を積んできた。
「仕事は何してんの?」
「本の編集」
「あんまり体は動かさんのやろ?」
「ウン」
ヤマギシの村人って、まるで、肉体と精神とが分離している、そんな感じがした。それと、もう一つ不思議なことは、よく見かける顔がある。でも、それが誰だったか思い出せない。継ぎ接ぎの目立つズボンやモンペ、頭にタオル。組合せや色は違ってもほとんど同じ風体。でも、顔が違う。そして、その顔が誰だったか思い出せない。
午後三時半、これで丸一日がたった。ものすごく早い一日だった。中間研鑽のあと、豚舎にもどって通路掃除と床直し。夕方にはブタ君への給餌。主なエサはオカラと配合飼料、赤土、サイレージ。出産直後の母豚にはほとんど与えず、休養中のブタ君たちにそのほとんどが回る。ものすごい食欲である。ダンボール大のポリ容器にいっぱいのオカラを見て、その特徴のある鼻をかき鳴らし、柵を乗り越えて容器にむしゃぶりつく。いやはやマイッタ。
この日の整理研鑽は午後六時半であった。どの部署も何もなく進んだのか話題がない。おのずと実習生に目が向く。何をしゃべったか、よく覚えていないが、とりとめのないことを約十分ほどにまとめたのは確かだ。そうそう「昼寝をして一日が二日間に感じました」なんていうことも感想として述べた。
ヤマギシは目に見えない
体験ルポの成果は一応これだけ。村人の参画動機を直接聞くこともなく、体で感じたままを書きつらねたようなものだが、はっきり言って、人から話を聞くことに、億劫さを感じている。実顕地にいると、心のどこかで「それに何の意味があるんだ」と別の自分が語りかけてくる。 特講中は「なんでや!」の連続であったし、それに対する答えは自分が見い出さなくてはならない。
やや気を取り直して、ルポ後、オキナガさんに会った。これからの一問一答はそのオキナガさんに答えてもらった ものだが、「これがヤマギシだ!」と言えるかどうかは分からない。なにせ、ヤマギシは目に見えないんだから。
「ヤマギシの基本は研鑽で、それが積み重なって、具体的な実践活動に入るわけですね?」
「そう」
「しかし、養豚部なら養豚部だけで理念から問題提起まで全部やっているわけじゃなくて、タテ糸とヨコ糸がどんどん重なって出来ていくわけですね?」
「そうそう。専門研は職場で、仲良し研というのは家庭ですから」
「社会と家庭とが一体になって網の目のようになっているんですね」
「簡単には分けにくい、というか、有機的なつながり、というか・・・・・・家と職場が切り離されてないから」
「専門がもし養豚としても、その中の技術であるか、作業であるか、生活であるかでまた分かれて、また、その中でトータルな意味での仲良し研が入っているというようなことですね。しかし、こう入り組んでいると、最初は戸惑いますねぇ」
「そうですねぇ、段々慣れていかなくては・・・・・・だから、最初はそんなに(研鑽も)多くないですよ」
「慣れてくると、どれぐらいの研鑽会に参加するんですか?」
「そう、夜だったら、月に最低三回はありますから。でも、別に難しいことは話さなくて、ごく普通の寄り合いみたいなもんですよ。寄り合う機会が多いだけ、会議というもんでもないし・・・・・・」
「テーマは?」
「そんなはっきりとしたテーマがあるわけじゃない。それぞれ皆、気楽に自分のことを言い出すし。日常生活ではあまり理念的なことは言わない」
「でも、ベースには理念的なものが多分にあるんでしょ」
「それはあるけれど、実際は体がそうなってるから、動いて知る方がむしろ多い。お互いに理念をタテにして攻め合ってたんじゃ続かないわね」
「突っ張り合いになってくる?」
「突っ張り合いばかりじゃ成り立っていかないじゃない」
「最近、雇用の人が多いみたいですが、仕事量が追いつかないためですか?」
「追いつかない、という面もあるわね」
「その辺で、規模が大きくなれば、理念が薄らぐようなことはないですか?」
「大きくなれば、生産物も大量生産になって品質が落ちるんじゃないかとか、大きくなれば、問題がたくさん起きてくるんじゃないかとか、よく言われるんだけど、それはまったく〝常識観念〟だと思うね。本当は大きくなればなるほど、質のよいものが出来るし、態勢も整えられ、試験も出来る、それに組織として安定もしてくるわね」
「ところで、短い間でしたが、社会のしがらみの中で会社勤めするよりはラクなような気はするんですが・・・・・・」
「なぜ、ラクかというところですね。本当はやっぱりラクな方の生活をしたい。僕もヤマギシの生活の方がラクやと思うよ。まず、余計なことを考えなくてもいい、本来のことさえ考えてればいい。それと、自発的にやればラクなの。ここはあくまで自発的にやるところだからね、それがなければしょうがない。入るのも出るのも自由だから」
特集の続きや、津のほんのバックナンバーは弊社にてご覧いただけます。