20032月号



 2月17 日午後1時から、丸の内の「サンマルコ」に最年長のL原田、お店のオーナーL黒田、会員委員会のL宮田、事務局の江藤さん、それにPR・会報委員会のメンバーL岸江、L稲畑、L久米が集って、津ライオンズの「来し方、行く末」を語り合いました。話は多岐にわたり、2時間を超える熱心なものでしたが、ここではその一端をご紹介します。

1,350点、1億6,782万円

 津LCの社会貢献は、なんと言ってもアクティビティーにあります。かたちの残る過去のアクティビティーを、事前にL稲畑が現地に出向いて写真に納めてくれており、話題はもっぱらアクティビティーに集中。A会長のときにこれ、これはB会長のとき、…と、年度の記憶よりも、時の会長の顔と結びついて記憶がよみがえってきます。
 これまでのアクティビティーを集計してみると、およそ次のような数字になりました。1960年〜69年の 年間で、162点1044万円、70〜79年 322点3267万円、80〜89年 369点4796万円、90〜99年 403点6116万円、00〜02年の3年間で、105点1559万円。 津LC 年間のアクティビティーは、1350点1億6782万2807円にのぼります。この間、随分とお金の価値も変動していますが、多大な貢献であることには間違いありません。
 以下、津LCのアクティビティーの数々を振り返ってみました。「運営特別委員会」も発足した今、ご参考になればとご紹介します。


三重県庁前庭のタイムカプセル(L金丸キャビネット時代)

  


津公園の東屋

津駅前のブロンズ像

ブロンズ像

津観音境内整備

アスト津の緞帳

 トップの写真は、三重県庁の前庭にあるタイム・カプセルです。津LC初代会長であった故L金丸吉生が、地区ガバナーを務めた年次大会を記念して贈ったものです。開封は、2026年となっています。
 津LC単独のアクティビティーとしては、体育館へ電光掲示板(すでに廃棄)、体育館前の噴水塔、偕楽公園へ東屋、市役所の藤棚、青少年野外センターの国旗掲揚塔、忠盛塚の整備、津駅前のブロンズ像、偕楽公園に桜 本、お城西公園にブロンズ像、武道館へ植樹、偕楽公園に檜 本、リージョンプラザに彫塑、市内に気象計5基、センターパレスに絵画、観音境内整備、アスト津の緞帳などが主な物品寄贈です。援護家庭児童に入学祝、対ガン協会へ寄付、聴力障害者支援、海洋少年団育成、阪神大震災義援金など、広範な社会活動への寄付金。また各種多彩なイベントの支援や提供などで、地域社会に実績を残してきました。

総点検から明日を拓く

 修復を待つ過去のアクティビティーもありました。特に津駅前のブロンズ像は、パネルが剥げ落ち、像や台座の汚れも目立ちます。最近までは、周囲が雑草で覆われていました。単に提供するだけでなく、維持管理にも心配りが必要なのかも知れません。
 多いときには 名いた会員も減少し、クラブがやや勢いをなくしています。話題は会員拡大とクラブの活性化にも及びました。会員増強のためには、女性会員の検討や現会員が身近にふさわしい人材がいないか、改めて点検してみること、これまでに退会した会員や事業所を総点検し、その子弟や後継者を勧誘することも会員拡大の重要な手がかりになるのではないか。クラブが活性化するためには、津市の三クラブが合同して大きなアクティビティーを行なうことを考えてもよいであろう。成果が市民の目に見える継続的なクラブの取り組みがあると、会員が社会貢献を実感できるのではないか、上納金にしてもどう使われているのか、もっと明瞭にしたほうがいいのかもしれない。年次大会の持ち方も工夫がいるのではないか、などが話し合われました。


セントバレンタインデー○(但しチョコレートの少ないLにとっては×)
献血例会日◎



鈴木所長

植田課長

 ということで、三重県赤十字血液センターの鈴木所長様と植田業務課長様をお招きし、お話を伺いました。
血液は栄養や酸素の運搬、免疫など人間の生命維持のために欠かせない機能で、代替手段が無いため、輸血そしてそれを支える献血活動は大変有意義で大切なことです。
「献血は患者さんの命を守る愛の贈り物」(チョコレートも愛の贈り物ですが……。チョコレートはもらわなくても命に別状無し。患者さんにとって輸血は命そのもの)400cc 献血や成分献血の必要性につき、分かりやすく説明いただき、改めて献血事業の大切さを痛感した例会でした。
(L稲畑芳美・記)

  
■連載■


親鸞が開山した専修寺
 津市一身田の専修寺(せんじゅじ)は、浄土真宗高田派の本山である。開山は親鸞(1173〜1262)。この開山が親鸞であることや親鸞の墓が専修寺の森の中にあることは、津市民にもあまり知られていない。親鸞の法系は浄土真宗として、本願寺派(京都西本願寺)や大谷派(京都東本願寺)など現在大小10派に分かれるようであるが、なかでも専修寺の高田派教団は大きく立派な教団である。
親鸞は54歳のとき、下野の国(栃木県)二宮町高田に専修寺を創建、田畑を耕す暮らしをしながら関東一円で布教につとめた。親鸞が没して後、高田派教団は盛衰を重ねたが、15世紀にはいって第10世・真慧上人が伊勢・北陸方面に精力的に布教、1465年ごろ伊勢の国の現在地に無量寿院(のちの専修寺)を建立した。その後栃木県の本寺が焼失したこともあって、戦国時代には本山を伊勢に移し、創建時の地名を取って高田山専修寺とした。
 専修寺の境内には、国の重要文化財である御影堂、如来堂、山門、県や市の指定文化財である唐門、鐘楼、梵鐘、銅燈篭、3250坪の安楽庵庭園「雲幽園」など荘厳な建造物やすぐれた文化財がある。装飾や彫り物にもすぐれ、如来堂の妻には、左甚五郎が彫った鶴が掲げられており、東門にあたる三層の太鼓門も貴重な建造物である。専修寺には、親鸞の真筆が多く保存されている。真筆保存は、親鸞ゆかりの寺のなかで専修寺が圧倒的に多い。なかでも、親鸞真筆の紙本9冊は国宝である。

親鸞の軌跡
 親鸞は、下級貴族の子として京都府日野に生れた。幼くして両親と死別、その後出家して比叡山で修業。29歳のとき山を下り、法然の弟子となる。法然は、ひたすら念仏をとなえることが往生の道と説いた。このことは無学な民衆を、ひとりの個人として救うこととなった。親鸞は、法然の教えに感服、「たとえ地獄であっても、法然上人の行かれるところについていく」と決意。やがて法然や親鸞の布教が、現世の価値批判となることを恐れた時の権力から断罪され、親鸞は越後に流される。そしてこの越後流罪がその後の専修寺創建、関東布教につながっていくことになる。親鸞は、25年余りの関東布教ののち63歳で京都にもどり、90歳で入滅した。
 親鸞は、「私の心の歴史は,三つの段階を通ってきた。その第一は、金と暇のかかる善行修行の立場だ(つまり善行を積み重ねて、そのご利益を期待する考え)。その第二は、自力の専修念仏の立場である。念仏を唱えて往生の道を『自分の能力でつかみとった』と思っていた時期である。その第三は、阿弥陀の本願を信じ切る、絶対他力の信仰である」と述べている。

悪人正機説  
 「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」。有名な「歎異抄」の一節である。善人でさえ浄土に生れることができる。まして悪人が浄土に生れないわけはない。ところが世間の人はつねに、「悪人でさえ浄土に生れるのだから、まして善人が生れるのはいうまでもない」と言っている。
 煩悩多い凡夫が,どんな修業をしたところで、生死の迷いを離れることは出来ないことを、あわれとお思いになって願を立てられた阿弥陀仏のご本意こそは、悪人(凡夫の自覚者)を救いとって仏とするためであるから、阿弥陀仏の本願に全てをお任せしきっている悪人こそ、実は浄土に生れるのにもっともふさわしい人なのである。したがって、自分の能力をたよりに善行を積む善人でさえ浄土に生れるのであるから、まして悪人が浄土に生れるのは当然である。(L久米宏毅・記)